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「教育」タグアーカイブ

【初著書】人間の教育 ~教育崩壊時代の実践教育論~

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4月5日に、私の初著書となる「人間の教育」が発売されます。

このホームページを読んで下さっている方には分かると思いますが、「時代の風潮」と真っ向から対立する本です (^^)/

「現代の風潮」と「人間の教育」を弁証法的に掛け合わせたら、次の時代の教育である「自律教育」へと向かえると思います。

自由と優しさ一辺倒の「甘やかし」を「甘やかし」とも思わない教育、「崩壊」を「崩壊」とも思わない教育現場は、もはやどうすることもできません。

躾が「悪」とされ、礼儀が「悪」とされ、親と子、先生と生徒の上下関係が「悪」とされ、子供の獣性を個性として認めることが「善」とされる狂った時代です。

この狂った時代に、たった一人で、「人間の教育」をするための考え方と方法論を書きました。


時代は「子供の自主性に任せることが良い教育だ」という風潮ですが、そのことは私も否定しません。

しかし「子供が他に頼らず、自分で考え行動すること」は、守破離で言えば、破や離に当たります。

本書は、その破や離の先に来なければならない「守」について書きました。

「アクティブラーニング」や「イエナプラン」といった方法論を支える「根」の部分について、人間の教育の「土台」について書きました。

オンデマンド方式という出版の性質上、値段が若干高めになっていますが、誰も書いていない内容で、「値段以上の価値」はあると思います! 

amazonや全国の書店で注文して頂けます。
isbn:978-4815026097



 

規律から、自由、そして自律へ

投稿日時: 投稿者:

一つの時代が終焉を迎え、新しい時代が始まろうとしています。

このことは、多くの人が感じていることではないでしょうか。

教育も大きく変わろうとしています。


明治時代初期に義務教育が始まって以来、「規律」が教育のキーワードでした。

生徒は規律ある行動を求められ、規律を乱す生徒は「悪」と見なされました。

「正解」は先生が知っていて、先生の言うことをよく聞く生徒が「良い生徒」であり「優等生」だったのです。

「自分の意見」を先生にぶつける生徒は、生意気だと言って殴られた時代もありました。


敗戦後は、規律から「自由」へと、一気に舵は切られます。

「規律」が徐々に薄まり、「自由」が段々と濃くなっていったのが、私たちの学生時代でした。

学校や家庭などの「文明社会」は、「規律」で成り立っています。

この「自由な教育」の行き着いた果てに、学級崩壊や家庭崩壊が待っていたのは、当然の結末でした。

私たちは、どこで間違えたのでしょうか?


自由ではなく、自律へ。

「規律」の時代の後、「自由」ではなく、「自律」へと私たちは向かうべきだったのでしょう。

「自由」と「自律」の意味の違いを理解することは、教育の「本質」に迫ることです。

「自由」
心のままに従うこと。

「自律」
①自分の行為を主体的に規制すること。
②他からの支配、制約を受けずに、自分で立てた規範に従って行動すること。


新しい時代の教育目標は、「自由」な子供ではなく、「自律」的な人間を育てることになります。

自分の心のまま「何をしてもよい」という「自由」な教育は、教育現場の「崩壊」を招き失敗したのです。

「自由」な教育は、失敗しました。
それに気づかないといけません。

しかし、「規律」の教育をそのまま現代に復活させるのも、時代の流れに合っていません。

先人たちも「自律」教育を求め、「規律」や「自由」教育に苦悩し、その涙の結晶である膨大な「知恵」を遺してくれました。

その知恵と涙を受け継ぎ、掛け合わせ、いよいよ「自律」の教育を生み出す時が来たのです。

 

倚(よ)りかからず

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「家庭の躾」の第14弾です。

前回 心身未分離の子供の躾として「腰骨を立てる」ことで、「心を整える」ことの重要性を書きました。

つまり「勉強がだるい」のは、そんな姿勢を取っている「自分がだるい人間」だということです。

勉強に対する「向き合い方」=「だるそうな姿勢」を正さない限り、勉強が面白くなることは一生ありません。

姿勢を正すとは、「腰骨を立てた姿勢」で勉強することで、その姿勢で勉強することが「当たり前」になることです。

今回の主題は、子供を「一人立ち」させるための「躾」についてです。


私は現状で、「日本の教育はほとんど崩壊している」と思っています。

このような状況下でも、教育の「最低目標」としては「子供の自立」ではないでしょうか。

つまり「いつまでも親のスネをかじらず」、子供が「一人立ち」して生きていくことです。

「ニート」や「引きこもり」を次々と生み出す、これまでの「甘やかしを甘やかしとも思わない教育」は「間違いだった」、と認めることから「新たな建築」が始まると思います。

その流れが来るのは「早くて数年先」のことだと思いますが、さしあたって、子供が将来「一人立ちできるようになる」ための「家庭の躾」を書きます。

「国民教育の父」と呼ばれる森信三の教えの「背骨」となるもので、それが「腰骨を立てる」ことなのです。


引きこもりやニートになる人で「腰骨を立てる」人間は、一人もいないと思います。

「腰骨を立てる」というのは「自分で自分を支える」ということです。

「自分で自分を支える」精神を持った人間が、何かに「もたれて」生きることは、「誇り」が許さないでしょう。

「腰骨を立てる」とは、人生に「正しく向き合う姿勢を育てる」ことだ、と言えます。

一方、イスにもたれないと疲れる人間は、「親」「友人」「会社」「国」にも、もたれます。

そうする方が「本人にとって楽」だからですが、そういう「もたれる人間」に限って、「自分を支えてくれるもの」に不満を持つものです。

たかが「姿勢」、たかが「イスの座り方」ですが、ここには大きな真実が潜んでいると、私は思います。


詩人 茨木のり子は、73才の時に「倚(よ)りかからず」という詩を書きました。

 

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 

詩人は「椅子に倚りかかる」ことを、私とは逆の意味で使っています。

何ものにも倚りかからず生きようとした詩人だから、、「椅子にだけ」は倚りかかってもいいと思ったのでしょうか。

あらゆるものに「倚りかかっている」子供たちは、少しずつ、「自分で自分を支えて」生きなければなりません。

その最初の第一歩が、椅子に倚りかからず、「腰骨を立てる」ことなのです。

腰骨を立てる

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「家庭の躾」の第13弾です。

前々回「育ちの良い子供、悪い子供」で、「やるべきことをやる気が出ないからできない」という子供は、「育ちが悪い」と書きました。

また前回「家庭学習を習慣化するための具体的手順」で、「勉強すること」を、やる気に関係のない「生活習慣」とする手順を書きました。

今回は「勉強のやる気が出ない」「家庭学習が続かない」といった子供に、効果抜群の方法を書きます。

明治以来、最大の教育者の一人とされる森信三の「躾の三原則」は、何度もこのページで取り上げてきました。

その「躾の三原則」には含まれていませんが、森が「教育の要諦」とまで言った「家庭の躾」の根幹が、今回の主題となります。


「国民教育の父」と言われる森が、「自分がここまで来れたのは・・・」と述べた文章が、森信三全集に収められています。

 


腰骨を立て続けたおかげだ

 

私はこの言葉に出合った時、驚きました。

日本の教育史に残る偉人を作り上げた根本が、「学問」ではなく、「腰骨を立てる」ことだと言っているのです。

森の人生は、自伝を読む限り苦難に満ちたものでしたが、70才頃の写真を見ると、その立ち姿の爽やかさ、美しさに見惚れてしまいます。

「腰骨を立てる」ことで、一本芯の通った「貫く」生き方ができると、森は述べたかったのではないでしょうか。


学習に関しても、「腰骨を立てる」ことで、「理解力」や「集中力」が増すと、森は述べています。

また、その多くの門下生によって「立腰教育」が実践され、その効果が実証されています。

「心身未分離」の子供にとって、「心を整える」ためには、「姿勢を整える」ことから始めなければなりません。

つまり、肘をつき腰をグニャッと曲げて、ダルそうな姿勢で勉強するから、勉強がダルく感じるのです。

そんな子供に「やる気云々」の話をしても無駄です。
ダルそうな姿勢を取り続ける限り、その子にとって勉強は一生「ダルいもの」であり続けます。

まずは「腰骨を立てて勉強する」ことから、指導を始めるべきです。

 

 

 

 

 

躾の大原則とは

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「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第10弾です。

前々回、前回と「大人社会と子供社会のギャップ(上)(下)」で、それらの社会に働く「原理の違い」について書きました。

「自分のやりたいことをやっていればいい」優しい「子供社会」に対して、「役目を果たす」ことを求められる厳しい「大人社会」という構図でした。

将来、子供が「一人前の社会人」として活躍できるような教育が「普通の教育」で、子供が大人社会に適応できない教育は「反教育」だと、そろそろ私たちは気づかなければなりません。

その「反教育」の代表が、今、猛威を振るう「甘やかし」です。

「甘やかし」とは、厳しい「大人社会」の原理に子供を近づけようとせず、甘い「子供社会」のルールをいつまでも許すことです。

そういう「甘い親」「甘い先生」が、現代では「良い親」「良い先生」とされていますが、社会人になるまで「甘い子供社会のルール」で育てられた人間は、その後「厳しい大人社会」をどう生きていくのでしょうか。


これまで何度も取り上げてきた、教育者 森信三が提唱した躾の三原則は次の通りです。

一 自分から挨拶をする
二 「はい」と返事をする
三 靴を脱ぐ時踵(かかと)を揃え、席を立つ時イスを入れる

その他にも、森は「朝、親に起こされずに、自分で起きる」ことも大切な躾だと考えていました。

また令和の女子の躾として、私は「自分のことを呼ぶ時、名前で呼ばず私と呼ぶ」も加えたいと思います。

他にも「躾」を細かく分類すれば何十~何百にもなりますが、何十~何百もある「躾」というのは、「実際的」ではありません。

今回は、それらの「躾」をすべて包括し、すべての土台となる最も重要な原則について書きます。

その最も重要な原則は、「大人社会」と「子供社会」を繋ぐ橋となるものでもあり、50年以上前までの日本では「常識」とされていました。


 


「やるべきこと」が先。「やりたいこと」は後。

 

これが子供の「躾」における最も重要な原則であり、すべての「躾」の原則は 、この大原則が淵源となっています。

また、この大原則は、社会人としての原則でもあります。

「大人社会」の原理である「役目を果たす」とは、自分の「やりたいこと」よりも、「やるべきこと」を優先することです。

「大人社会」にそういう原理が働いている以上、その準備期間である「子供社会」も「やるべきことが先。やりたいことは後」に近づけ、そういう思考習慣を身につけさせた方が、子供は将来「楽」に生きられます。

要するに「甘やかし」とは、子供が「やること」もやらずに、「やりたいこと」だけやるのを「許す」ことです。

昔の「親の小言」を、令和の子供にも言ってやりましょう。

 

 

やることをやってから、
やりたいことをやれ!
と。

 

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